いつから「表現の自由」の問題と思っていた?
千葉県警が児童向けの交通啓発PR動画を作成し、抗議を受けて削除した問題。
その理由を説明する。
1
発注者の千葉県警は公権力サイドそのものであり、私人の自由である表現の自由があるはずもない。今回は警察という公権力の典型であるからわかりやすいが、基本的に公的機関には表現の自由はないといえる。なぜなら公的機関とは法によってその存在根拠が示された機関であり、日本国憲法や国際条約に反する思想を持つことは許されない。法人には内心の自由もない。思想の自由も内心の自由もないから、それらを担保する表現の自由もない。
もちろん、発注者に表現の自由がないのだから発注者の代理である製作者にもない。
2
表現の分類の仕方はいくつかあるが、代表的なもののひとつに
■表現そのものを目的とした表現→美術、マンガ、文学などいわゆる広義のアート
と
■なにか別の目的のための手段としての表現→広告、啓発などいわゆるデザイン
という区分がある。
増田のこの議論は、「表現そのものを目的とした表現」にはあてはまるかもしれない(芸術における表現論としても幼稚だと思うが、そこを突っ込むと話が拡散するので避けておく)。
しかし
広告表現においてはこの議論は問題外で、まさに「全く根本的に、完璧に、箸にも棒にも引っ掛からない、超ド級の、馬鹿」としかいいようがない。商業広告であれば商品の売上を伸ばす、企業のイメージ広告であればイメージをよくする、公共機関の啓発広告であれば啓発内容を訴求対象に的確に伝えるための「必然性」が求められる。
アタリマエのことだ。それが広告というものの存在理由なのだ。
シナリオが、構図が、キャラクターが、演出が、音楽が、その他いっさいの表現形式がその「必然性」に奉仕するのが広告なのである。広告案のプレゼンをするものは、その案のあらゆる要素に対してその「必然性」を説明できなくてはならない。
3
以上、
2では、そもそも広告表現には「自己表現としての表現の自由」など存在しないことの2点を簡単に説明した。
公的機関の広告に関して、表現の自由を持ち出すことは二重に間違っている。
ここで注意すべきことがある。
これまで何度か「表現規制問題」と捉えられて炎上してきた問題の多くが、実は公的機関か公的機関に準ずる組織の行った公共広告に関することであった。
論点をだいぶしぼったので、とりこぼしている論点がいくつかある。
気が向いたらそのあたりを書くかもしれない。