宇崎ちゃん献血ポスターは失敗。しかし撤去してはならない。

タイトルを少し変えたが、前回記事の後編である。
 
前回記事の反応をみて、血液という公共財の特殊性から丁寧に説明する必要を感じた。長くなるが、まず血液という財の特殊性から説明し、このような特殊なものを取り扱う広告で何が求められ何をしてはならないかを論じることにする。それによって「宇崎ちゃんは遊びたい」献血ポスターの失敗を明らかにする。
 

そもそも
血液の供給を増やしたければどんなキャンペーンより確実な方法がある。それは血液の売買を認めることである。売血を認めれば、間違いなく血液の供給が増えることは、誰しも直感的に理解できるだろう。だがWHOによっても採択された国際輸血学会の倫理綱領(PDF注意)にもあるとおり、売血が不適切であることは国際的に合意されているといって良い。なぜだろうか?
 
血液という公共財産の特徴を列挙してその理由を考えてみよう。
1,血液は輸血用製剤として、あるいは血液を原料とする様々な薬剤の原料として医療に不可欠
2,血液は人工的に合成することができず、人体より供給されるしかない
3,血液は保存期間が短く、安定して長期にわたり常に供給され続けなければならない
4,血液を提供する際には、痛みや不快感など(個人によって感じ方の程度は様々だが)をともなう
 
ここまではだいたいみんなわかっている話だ。
そして、ここまでで話が終わるのなら、血液の売買で解決できるのである。
まあ、売血を採用する場合は、貧しいもののみが血を売るという意味で倫理的な問題はあり、それはそれで重要なのだが、それだけで売血がダメとされているのではない。
ではさらに血液という公共財の特徴を述べていこう。
 
5,輸血あるいは血液を原料とした薬剤の使用によって、さまざまな感染症のリスクがある
6,血液の検査あるいは処理により、ある程度は感染症の病原体を取り除くことはできるが、その全てに対応することは現実的に不可能
7,したがって、血液の提供者は十分に健康でなければならない。また、病歴・渡航歴・性体験の状況・服薬状況・現在の体調などなどを問診時に正直に申告してもらう必要がある
8,血液を原料にした薬剤(血漿分画製剤)は多数の提供者の血液を混ぜて作るので、ひとつでも問題のある血液が混じると数千数万人分の薬剤が「汚染」される
 
つまり、生体由来の資源である血液には利用にあたってのリスクがともなうということである。いわば血液には「質」があり、血液の「質」の管理が極めて重要なのだ。
 

売血がダメとされている理由はこの、血液には質が大切だという点にある。
 
血を売って利益を得たい人は、問診を誤魔化すことが利益になるのだ。金が欲しいのだから、嘘をつくことにメリットがあるということになる。結果的に、血液が汚染される可能性が高まる。つまり血液の「質」が下がることになる。
また、そもそも貧困者は健康状態が良好でない者が多く、感染症罹患率も高いということも常識の範囲だろう。相対的に血液の質が悪く、しかも問診で嘘をつくことにメリットが大きい集団から集中的に血液を集めるのが売血という仕組みなのだ。
 
そして、万が一汚染された血液が混ざった薬剤が作られた場合、その被害は甚大なものとなる。まず思い出されるのは薬害エイズ事件である。あの事件はアメリカ(売血が認められている)から輸入された血液をもとに作られた薬剤が原因である。また、2019年においても、現状では売血が認められている中国(献血のみに切り替えることを決めているが、簡単ではないだろう)で1万2千本の血液製剤がHIVウィルスに汚染されたという報道もなされている。
 
つまり、血液事業においては、血液の「量」だけでなく、「質」の確保も患者の生命と健康を守るためには必須だということとなる。量と質の両者を同時に満足させることは困難である。困難ではあるが、それが赤十字のミッションといえる。
 
「量」を重視するなら売血、「質」を確保するなら献血がよい方法だ。
ただ、薬害エイズ問題に見られるように、血液製剤の汚染による事故は事件そのものが重大な人権侵害というだけでなく、深刻な医療不審、行政不審につながって社会のダメージが非常に大きいこと。また、先ほども触れたが、売血の場合は血液の供給を貧困層に依存するという社会倫理の問題も大きく、売血という方法を採用するわけにはいかないのであろう。売血の問題点や血液事業の沿革について興味のある方には、大阪府赤十字血液センターの記事をおすすめしておく。
 

金銭的インセンティブの導入は血の「質」を劣化させるものであることは、理論上も経験上も明らかである。ところが、問題は金銭的インセンティブだけではない。
献血時にHIVウィルスの検査結果を献血者に告知する制度を導入後、エイズ抗体陽性の献血者が4倍以上に増えたというデータがある。自分がエイズに感染したと疑う者が検査目的で献血したことは明らかだろう。明らかに血液の「質」が低下したのである。
 
経済学者ケネス・アローは、血液という財の特殊性を「情報の非対称性」という経済学理論によって説明している。情報の非対称性とは、提供される財やサービスの財の品質について提供する側とされる側に情報量の違いがあり、情報を多く持っている側は情報弱者をだまくらかすことが簡単にできるということである。
情報の非対称性を持つ財は珍しくはない。財としては中古車、サービスとしては医療あたりが典型だろう。個人は問題のある中古車(事故車とか)をつかまされやすいし、ニセ医療にひっかかりやすい。情報を多く持っている騙す側は業者や専門家であることが多く、騙されるのは個人なのだ。
 
ところが、こと血液に関しては情報を握っていて簡単に騙す側にたてる情報強者は血を提供する個人で、騙される情弱は専門家や組織なのだ。情報の非対称性において優位なのが個々人であり、しかも社会的に必要不可欠という財は他にないのではなかろうか?
 
情報の非対称性の解消はもともと困難なうえに、優位な方は個々人であるのだからもう手のつけようがない。提供される血液の質について、嘘とごまかしがまかり通ることになる。献血時の問診において、嘘をつくことにメリットがあれば嘘がまかりとおるのだ。
だから、ほとんどありとあらゆるインセンティブの導入が、血液の「質」の低下につながってしまう。血液は非常に特殊で厄介な財なのだ。
 
グッズ頼みの献血コラボキャンペーンにも当然に同種の問題がある。例えばコミケ会場での献血は参加者割合も実に大きく、血液が多量に必要な年末などで血液の供給源として大きな貢献をしている。実にありがたいことである。
しかし、限定グッズをインセンティブとした、しかも祝祭的な空間における献血に問題がないわけではない。お祭り空間で限定グッズとなると、多少の体調の悪さには目をつぶり、あるいは高揚感で体調の悪さなど吹き飛んでしまい、体調が十分でないまま献血をするケースが多発すると思われるからだ。これは血液の質を下げるだけでなく、献血者にとっても危険な行為といえる。
また、グッズの換金性も問題。メルカリやヤフオクで検索すれば、献血グッズが取引されているのを見ることができる。
 
血液の供給を考えれば、グッズ頼みの献血コラボキャンペーンを一切やめろというつもりはないし、コラボされる作品によっては啓蒙教育活動にもつながる。もちろん献血者ひとりひとりに対しては感謝なのであるが、こうしたキャンペーンを手放しで賞賛もできないのである。献血者が増えれば成功、という単純な話ではない。
 

ここで、血液という公共の資源のもっとも大きな特徴がはっきりとする。
その特徴とは、さきほども述べたとおり、ほとんどありとあらゆるインセンティブの導入が、問診で嘘をつくことにメリットを生じさせてしまい、結果として血液の質を下げる方向に働くということだ。
しかし、血液の質を下げないインセンティブが実はたったひとつ存在すると経済学者ケネス・アローは言っているようだ。それは何か?
 
・なんの見返りも求めない利他的行動によって得られる心理的満足感
 
なんとこれなんですよ!
苦しんでいる他者を助けることで満足したいというのが動機なのだから、問診で嘘ついて血液の質を下げることにメリットがないわけ。
 
いやね、これってすごいことだと思いませんか? ご同輩の皆さま。
血液というものは、現代社会において必要不可欠な資源でありながら、その質を保つためには純粋な利他心をただひとつのインセンティブとすることがベストな資源なんだということが、その特殊な性質から導かれるわけです。
社会を成り立たせる基盤にある特定の資源の質を保つために「利他心に頼るしかない」とか言われたら、これは普通はただの馬鹿だと思うでしょ? 高品質の資源を獲得するためには社会の仕組みを整えてインセンティブで誘導するのが当たり前です、普通は。
ところが血液についてはインセンティブ導入がのきなみ質の劣化に向かっちゃう。市場メカニズムでは必然的に劣化しちゃう。見返りを求めない利他心に頼るしかない。見返りを求めない利他心って、純粋な善意であり、公徳心であり、ノブレスオブリージュであり、もっといえばモースのいう純粋贈与であり、孔子がのたまわるところの仁であり、ゴータマの説く慈悲であり、ナザレのイエスが諭す愛なわけ。
利他心だの公徳心だの慈悲だの愛だのといった類いの価値に、実のところ現代社会は大きく依存しているということをロジックとして示しちゃっている「物質」が血液というわけで、もう個人的には面白くて面白くて踊っちゃうくらいです。
 
利他心がどうこうと字面を見るだけでしらける人たちも一定数いると思うけれど、それは中二病というものだ。個体識別できる程度の知能をもち、ある程度固定された集団で暮らす動物には互恵的利他性が発達することは進化心理学において常識とされる話であり、人間を含む多くの動物に生得的に利他的行動をする性向がそなわっていることは理論上も実験観察上も科学的に確かめられている。
そして、見返りのない献血という行為で、現実に血液事業が運営されているのだ。献血をしたことのある人なら、あの独特な気分の良さというのはわかるでしょう。あれは気分がいいです。「今日は俺、ウナギ食ってもいいんじゃないの?」と思っちゃうくらい気分がいい。利他心は現実に機能しているのだ。
ただ、現代社会という巨大で複雑な機構においては、利他心というのをシステムのベースに組み込むことは難しい。むしろ利己心をベースにしてインセンティブ誘導によって資源の適切な配分を行う市場システムのほうがよいことが多い。僕も市場は高く評価してます。好きと言っていい。だからこそ、非市場的どころか反市場的とさえいえる献血というシステムが、現代社会の基盤のひとつであることに興奮が隠せません。
 

さて、ここでやっと折り返し点。
血液という財は非常に特殊で、社会が存続する限り長期にわたって常に供給されなければならず、誰にとっても潜在的に必要だが特に健康に問題のある人の生命に直結し、提供者には健康と誠実さが要求され、市場による(=インセンティブ導入による)調達では質が劣化して大惨事につながりかねず、質を保つためには純然たる利他心に頼らざるを得ない。
 
この極めて特殊で公共的な財を独占的に取り扱うことを国家によって認められているのが日本赤十字だ。日赤の広告が気に食わないからといって、献血者は他の献血先をもつことができない。ほかの選択肢がないのだ。
 
血液と赤十字のこの特殊性が広告戦略に反映されるべきなのはアタリマエである。
 
以下に、血液事業において求められる広告のあり方と、やってはいけないことを考えていこう。
 

まず、日赤は血液事業を独占しているということがなにより重要だ。
献血者にとって他の選択肢がない以上、献血の意思と能力のある人すべてを公平に取り扱わなくてはならない。「私たちもがんばって広告を作ってるんです。気に食わないなら来なくていいですよ」ということは許されない。
 

そして、利他性を尊重する必要がある。血液の質を保つというミッションがあるから売血でなく献血を採用しなければならない。ならば利他性を頼らなければならない。利他性の発露を何よりも必要とする事業が利他性を尊重するのは当然のことだ。
では、利他性を尊重するために必要とされるのは何か? 公平と中立という前記事でも触れた赤十字の原則は、利他性の尊重と促進のためには実際に必要なものだ。ただの建前などではない。
 
そもそも国籍や所属を問わずに戦場での負傷者の手当てを行う赤十字のミッションを遂行するためには、中立で公平であることが絶対的に求められる。例えば、目の前に苦しんでいる負傷者が多数いて、一方の側の軍が医療資源の提供の見返りに軍事行動への協力を要請したとしよう。ここで浅はかなリアリズムをきどって片方の軍に肩入れなどを行ったら、以降は医療と人道を隠蓑にした軍事行動をあらゆる軍から疑われ、攻撃の対象にすらなりえる。目の前の負傷者を助ける代償が、赤十字の機能崩壊であり、将来的に助けた数の何千何万倍以上の者が苦しんで死ぬことになろう。
中立・公平の原則を道徳的なタテマエと軽視しリアリストを気取る者こそが、どうしようもない近視眼的なお花畑であり、ぶっちゃけ人殺しなのだ。赤十字は公平で中立であることしか許されていない。一切の党派性をもちこむことは許されない。それこそがリアリズムなのだ。
 
話を献血事業にもどす。
血液事業においても、中立と公平が重要である。けっしてやってはならないことは、献血という行為に分断と争いを持ち込むことだ。分断と争いが持ち込まれたところで、人が利他的であることは難しい。
 
すべての人のためになり、利他心に頼らざるを得ない献血という行為に分断と争いを持ち込んだのが宇崎ちゃんポスターであることに反論できる者はいないだろう。この問題を論じたあらゆる記事につけられたコメント欄で、対立と分断の大火災だ。
 
人が対立することは避けられない。価値観が多様である以上、それは仕方がない。しかし、対立が持ち込まれてはならないモノってのはあるんだよ。議論のアリーナで手斧なげあってヒートアップしても、ネットから離れたら献血に行って人の役にたって気分よくなろうよ。
でもいま、対立する双方が気分よく献血できる状況になっているかい?
 
女性の身体の性的な記号化というのは、現代社会においてもっとも政治的な対立の激しいトピックのひとつである。広告のプロがこれを知らないことはありえないし許されない。そして赤十字は自らの使命を果たすために、中立・公平でなければならず、利他心を尊重しなければならない。献血は誰を排除してもならないし、誰のものであってもならない。
 
あのポスターが掲示されている限り、あれに不快感を感じる人は、献血という利他的行動に不快感をともなうか、利他的行動そのものをあきらめるかである。利他心を尊重しなければならない赤十字が、利他行動に不快感を与えたり、利他行動をあきらめさせるようなことをしてよいのだろうか?
しかも赤十字献血事業を独占している。赤十字が嫌だからといって他の組織を選ぶことはできない。政治的に対立が明らかな地雷が持ち込まれて、「我慢しろ」と利他行動と不快感をパックにされたり、「嫌ならくるな」と利他行動をあきらめることの二択が強いられる。なんでこんな目に合わなければならない?
 

仮に宇崎ちゃんポスターが撤去されたとしよう。
今度はあのポスターを擁護していた側が収まりがつかないだろう。一度与えられ、そして奪われるのは激しい怒りを呼ぶ、人を本当に傷つける。「献血からオタクが排除されている」と感じても仕方がない。献血などにもう協力するものか、と思って当然だ。
だから僕はあのポスターを撤去することやキャンペーンの中止には反対する。
 
献血に敵味方はない。オタクもとても大事だ。オタクも気分よく献血できるべきだ。他のことで対立していても、献血についてはお互いの気持ちを尊重し、互いに感謝すべきだ。
他人のために血を流すということはとても象徴的で、強い大きい意味がある。他人のために血を流す人というのは、もっとも尊敬され信頼される人である。だから、意見の相違があり、悪口をいいあったとしても、「彼らも私たちも献血をした。彼らと私たちは確かに対立しているが、彼らも私たちと同じように、見も知らぬ他人のために自分の血を提供できる、他人のために血を流すことのできる人たちなのだ」と思えれば、分断も対立も乗り越えられる可能性がある。対立する双方に利他心があることが可視化される献血は、社会の統合にも役に立つかもしれない。
そのような広告を心から望んでいる。
 
宇崎ちゃんポスターを掲示し続けても、撤去しても、どちらでも献血が特定の誰かのものになってしまう。この犯罪的に愚かなコラボで持ち込まれた分断と対立の傷は癒されない。詰んでいるのだ。献血はすべての人のために、すべての健康な人が贈る贈り物、という利他的な理念が深く傷つけられてしまった。献血の啓蒙活動において絶対になされてはいけないことが起きてしまったのである。
 
以上が、「宇崎ちゃんは遊びたい」ポスターが失敗であると考える理由の最大のものである。
だがこれだけではない。まだいくつかある。
 

献血者が減っているのは、若年層の減少によるところが大きい。健康状態のよいものしか献血できないのだから、それも当然である。したがって、少子高齢化がすすむほど血液が不足していくと見込まれる。
だから、将来的に献血をする者の割合が増えてもらわないと困ったことになる。赤十字もそれは理解していて、子供向けの献血教育を行ったり、献血ルームにキッズスペースを作って若い親子の勧誘に努めている。いまは元気な人たちが歳をとって健康状態が悪化したときに血液を提供してくれるのは、いまの子供やこれから生まれる赤ん坊たちだ。若い親子はとっても大事。小さな子供を連れた家族が献血に来て、快適な献血ルームでお父さんお母さんが献血を行い、その意義を子供に説いてくれるほど心強いことはない。いいことだから子供に刷り込むんだ!
 
でもさー、そこに若いお母さんから「子供には見せられない」と評されるポスターって貼っちゃってええの? 子供に影響力あるのはお母さんだよ。いあ、お父さんにしてもだ、自分は楽しんでいても子供には見せたくないコンテンツっていくらでもあるわけです。自分で楽しんでいるエロ漫画も、ちっちゃい子供には見せられないよな。
その意味でも、献血ルームには性的と捉えうるような掲示物なんかはできるだけ避けるべきだといえる。そこは敏感でないといけない。
 
明らかに献血教育の足を引っ張っているわけで、この意味でもこのキャンペーンは失敗です。
 

10

グッズというインセンティブ頼みのキャンペーンに僕は批判的だけれども、漫画やアニメとのコラボそのものは条件次第でとても有益だと考えている。ここ最近は献血キャンペーンにアニメや漫画がコラボされていることが多いわけだが、コラボされた作品そのものが献血事業と関係があるものであれば、その作品を通じて献血への理解も深まるだろう。
体の仕組みとか血液の価値とか、そういうものを表現している作品、医療系の作品や、吸血鬼がでてくる作品なんかはコラボの効果が高いと思う。先程述べた子供への献血教育という意味でも望ましいくらいで、こういう場合はグッズを分けてもいいのではないか?
 
だけど「宇崎ちゃん〜」ってなんの関係もないでしょ? 関連がないから教育効果もなく、ただグッズを分けるだけのキャンペーン、つまり一時的に供給量は増やすかもしれないけれど、血液の質を下げる方向性のキャンペーン、ようするにマイルドな売血ですね。これ、胸を張って成功といえるようなものですか?
 

11

センパイ!まだ献血未経験なんスか?ひょっとして……注射が怖いんスか?
宇崎ちゃんポスターのセリフがこれである。これもいろいろひどい。
注射はセックスの比喩としてエロ小説やシモネタでよく使われることはみなさまご存知であろう。つまりこのセリフは性交未経験であることへのからかいであり、童貞いじりである。赤十字献血促進キャンペーンで童貞いじりしていいんかよ、ということや、このセリフを見て「子供には見せられない」という若い親の判断が確固としたものになるとか、そのあたりももちろんある。
 
しかし、献血未経験者、あるいは献血できない人に対するからかいってのはもっとまずいだろう。
私事であるが、10年近くまえ、近場の献血ルームにいって献血しようとした際、血液検査の結果から断られたことがある。肝臓系の数値がおかしい場合は肝炎の疑いがあるので献血ができない。当時はいまよりだいぶ太っていたので、たぶん脂肪肝だったのだろうと思う。多少落胆した。
運動習慣をつけたことで献血ができる身体になり、利他行動の喜びを享受できるようになったいまの僕であるが、当時「注射怖いんか?」とかいうポスターが掲示されていたら、「なんで善意で血を提供にきて、検査のすえに断られてこんなこと言われにゃならんのだ!」ブチ切れたかもしれないし、いま献血しているかどうかわからぬ。
 
献血は利他行動であると同時に、運のよい健康強者の特権であるともいえる。身体が十分に健康で、渡航歴や性体験などが特定の条件にあてはまった者のみに可能な行為だ。こうした行為の価値を高く評価するのなら、やりたくてもできない人をからかうのはダメだってわかるでしょ? 状況と健康に恵まれた人たちから、すべての人たち、特に健康状態の悪い人たちへの贈り物が献血であるのに、たまたま献血できない人を馬鹿にしてどうすんだよ。注射が怖い、血を抜かれるのが怖い、だって立派な理由だよ。怖いとか嫌だということの感じ方の差って、本当に人それぞれだ。
この意味からも、このポスターはあかんわ。
 

12

というわけで
政治的分断を絶対に持ち込んではならない献血に分断と対立を持ち込み、赤十字に必要不可欠な中立と公平という価値をないがしろにし、将来のための献血教育を促進するどころか足をひっぱり、一時的に献血を増やしたとしても血液の質を落とす方向性のあるマイルドな売血であり、献血未経験者・献血ができない人へのからかいまでやらかしたこのキャンペーンは、やってはいけないことをコトコト煮詰めてできた安易で無神経で身勝手などうしようもない失敗の見本であり、ポスター撤去・キャンペーン中止すらかえって献血の価値につけられた傷を深くするという、クソの中のウンコとでもいうべき犯罪的な愚行です。
徹底的に批判しなきゃいかんです。こんなの通すなんて、赤十字は脳が煮崩れてるんと違うか?
 

13

そしてお願いがある。
僕自身はフェミに近い立場なので、自分の立場に近いフェミニストやあのポスターを不快と思う人達にお願いする。
ポスター撤去、キャンペーン中止は、フェミニズムの党派的な勝利ではあっても、あのポスターによって献血に持ち込まれた対立を固定してしまうものであり、それは献血の理念の敗北である。つまりは利他性の敗北である。僕はあなたたちが正しいと確信しているが、だからこそ撤去は求めないでほしい。献血において、すべての人の気持が尊重されなければならず、僕たちはオタクの気持ちを尊重しなければならない。いったん与えられたものを取り上げようとしないでほしい。
しかし、不快なものは不快だと、失敗は失敗であると声をあげることはなんの問題もない。献血事業を大切に思うのなら、厳しく赤十字を批判すべきだ。こんな愚かなことは、二度とやらせてはダメだ。
 
反フェミの人たちがどうすべきかについては、まあ自分たちで考えてくれ。献血はオタクを排除してはならないが、オタクだけのものであってもならないことだけは理解しておいてくれ。
 
最後にすべての献血できるひと、献血に興味をもったひとへ
行ける人は献血行こうな! 特に年末は貢献度がでかいぞ。気分いいぞ。